豊かな自然風土に育まれ、京文化に磨きあげられた伏見の酒。
その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。
以来、脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは、安土桃山(伏見)時代のこと。
天下統一を果たした豊臣秀吉の伏見城築城とともに伏見の町は城下町として大きく栄え、京・大坂・堺に次ぐ人口6万人の大都市を形成しました。酒の需要も急激に高まるなかで、さらに改良も加えられ伏見の酒も一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに、江戸時代になると、伏見は港町として発展し、とくに伏見と大坂天満の間に三十石船が上り下りするようになってからは多くの旅人が上陸し、伏見の酒は旅人の口コミで売れてゆきました。
やがて寛永十二年(1635年)参勤交代制度ができると、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、しばらく逗留して、あらためて大名行列を整え東海道を江戸へ下っていくようになりました。このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、西国と東国を結ぶ重要な拠点となりました。造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた明暦三年(1657年)には酒造家83軒、造石高15611石と記録されています。
しかし、米が何よりも貴重であった時代、豊作・凶作による米価の変動を防ぐため酒の造石高は幕府により制限をうけ、経営困難になる蔵が続出しました。さらに幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減っていきました。
幕末、天保年間(1830−43年)には、灘が40万石の生産量を誇ったのに対し、伏見は明暦の頃に比べると造石高は半減し、造り酒屋も三分の一以下になっていました。
しかも、明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たった二軒だけでした。その一軒が鮒屋こと北川本家で、もう一軒は笠置屋(現在の月桂冠(株))です。
伏見の酒の苦悩の時代はまだ続き、勤皇と佐幕に分かれて激しく衝突した「鳥羽・伏見の戦い」の巻き添えで、酒蔵のほとんど消失しました。
そして、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し、天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのです。明治四十四年には農商務省主催の全国清酒品評会で出品28点のうち,入賞23点と全国最高位を占め、なかでも月桂冠は最優等の栄冠を博し、灘をアッといわせました。
一升(1.8リットル)の酒に、八升の水が必要といわれる酒造り。なかでも良質で豊富な地下水に恵まれることが、銘醸地の条件といえます。伏見はかって「伏水」とも記されていたほどに、良質の地下水が豊富に湧き出る地。桃山丘陵をくぐった清冽な水が、水脈となって地下深くに息づいています。
そのすぐれた地下水の伝説をもつ、御香宮(ごこうのみや)神社。社伝によると千数百年前、境内に香り高い清泉が湧き出し、朝廷から「御香宮」の名を賜ったのがそもそもの起こり。そして現代、この名水は「日本名水百選」のひとつに選ばれ、訪れる人たちに親しまれています。
ほかにも秀吉の時代の「金名水」「銀名水」「白菊水」など「伏見七ッ井」の名水伝説が残っています。
伏見の水の水質は鉄分を含まず、カリウム・カルシウムなどをバランスよく含んだ中硬水で、酒造りに最適の条件を満たしています。
俗に「灘のおとこ酒」「伏見のおんな酒」といわれますが、灘五郷は「宮水」という硬度の高い仕込水のおかげで、しゃんとした辛口の酒に仕上がります。一方、伏見の水は宮水ほど硬度がないため、きめ細やかで口あたりのよい酒を醸します。
伏見の酒のきめ細かく、まろやかな風味は、この理想的な地下水とこの水を守っていこうとする人々のたゆまない努力によって生み出され続けているのです。
昭和三年(1928年)、奈良電鉄(現在の近鉄京都線)は奈良と京都を結ぶため、伏見の町を縦断し、陸軍工兵隊練兵場を横断する路線を計画しました。ところが軍用地を民間が利用するようなことが許可されるわけがありません。そこで奈良電鉄は窮余の策として、伏見の町の区間を地下化しようとしました。
この報告をうけた伏見酒造組合では、伏見の酒の生命ともなる仕込水の井戸の群集地の真下となるため、電鉄側に設計変更を申し入れる一方、軍部・大蔵省・鉄道省へも猛烈な運動をおこし、ついに軍部を説得し工兵隊練兵場西部に、高架による用地使用を認めさせました。
大東亜戦争に突入すると、軍の機密を高架より見下ろすことが大きな問題となりましたが、電車のよろい戸全部を閉めて通過するようにしたということです。
株式会社 北川本家
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