伏見は現在、京都市伏見区と京都市の一部分のようになっていますが、昭和六年(1931年)3月までは伏見市として独立していたことからも分かるように京都と深いかかわりを持ちながらも、豊かな水に恵まれた環境のなかで独自の文化を発展させてきました。
平安時代には風光明媚な山紫水明の地として皇室や貴族の別荘がおかれ、天下統一を果たした豊臣秀吉は交通の要衝であったこの地に豪壮華麗な伏見城を築城し、全国の大名や商工業者を呼び寄せ一大城下町を形成しました。
江戸時代のはじめに伏見城が廃城になると城下町としてはさびれましたが、京都と大坂を結ぶ淀川水運の玄関口として伏見の港は三十石船でにぎわい、大名や旅人の間で酒の需要が伸びて伏見の酒が隆盛を極めました。
そして、幕末。坂本龍馬をはじめとする勤王の志士たちが押し寄せ、近代の夜明けの舞台となりました。
今も「京都」という枠にはおさまりきらない、伏見だけのなにかがこの土地にも人にも水のように流れています。
「ふしみ」という地名は相当古い時代の文書にも出てきますが、平安時代は「俯見」「臥身」あるいは「節身」という字が当てられており、伏見城が造られた中世末期頃から「伏見」という字が使われるようになりました。さらに、港町となって「伏見津」と呼ばれるようになり、江戸時代はこれに「伏水」という字を当て「ふしみ」と読む場合も多くなり、明治の頃まで続きました。
明治十二年(1879年)「伏見」という地名が正式に決められ現在に至っています。
「桃山」というのは、太閤 秀吉の伏見城跡(木幡山)に桃を植えたことから後世ついた名前です。
鎌倉・安土・江戸というように、その当時の政治・文化の中心地を名称にするのなら、桃山時代・桃山文化ではなく伏見時代・伏見文化と言うべきではないでしょうか?
歴史の教科書や年代表もみんな伏見に直していただきたい!
慶長元年(1596年)7月13日未明に起きた慶長伏見地震は、文禄元年(1592年)に築城された伏見城の天守閣を崩壊させ、500名にものぼる圧死者を出しました。秀吉もこのとき城内にいましたが、幸い難を逃れています。
「地震加藤」の故事は、この慶長伏見地震のとき謹慎中の加藤清正が真っ先に城に駆けつけ、大手門を固め救援にあたったことによるものだそうです。
朝鮮半島での活躍を石田三成や小西行長らに妬まれ、彼らの告げ口によって秀吉の怒りをかった清正でしたが、この大地震のおかげで名誉挽回のチャンスを得ることができたわけです。
東海道の宿場制度ができて四百周年となる平成十三年(2001年)を前に、「東海道五十七次」説が持ち上がっています。江戸時代の浮世絵師 安藤(歌川)広重の作品で知られるように、東海道の宿場といえば江戸−京都間の五十三次とされてきました。ところが、徳川幕府の記録では京都−大坂間も東海道に含め、道中に四ヶ所の宿場を設けていたということです。
近世の交通史に詳しい児玉幸多・学習院大学名誉教授によると、幕府が天保十四年(1843年)に、東海道の各宿場の人家数などを調査した「東海道宿村大概帳」には、品川から大津までの五十三宿と伏見、淀(京都府内)、枚方、守口(大阪府内)の四宿が記載されています。五街道の起点だった江戸・日本橋の伝馬所の「御伝馬方旧記」にも、宝暦八年(1758年)の記録として「(東海道は)品川から守口まで」との記述があります。児玉名誉教授は「史料から見ると、東海道は江戸から大坂までで間違いない。しかし、一般には江戸から京都までを旅する人が多かった。また、伏見から大坂へは船で淀川を下ったため、京都−大坂間の四宿は上りが中心の片宿となり、他の五十三宿と比べると利用が少なかった」と指摘されています。
江戸時代後期には広重の「東海道五十三次」がベストセラーになるなど、東海道は公的には五十七次の機能を持ちながら、庶民の間では五十三次として定着していったようです。 <1999年6月18日 朝日新聞【大阪】夕刊>
平成九年(1997年)3月6日京都市市街地景観整備条例に基づき、伏見南浜地区が「界わい景観整備地区」に、また、地区の周辺に立地し、景観を特色づけている酒蔵などが「歴史的意匠建造物」に指定されました。
この指定を受けて、「伏見南浜界わい景観整備計画」では、町家や酒蔵などの歴史的な町並みを生かした外観とする景観整備の方針や、意匠・形態等を「界わい景観建造物」に調和させるなどの建築物その他の基準を定めています。
「市街地の整備改善」と「商業等の活性化」を車の両輪とする総合的・一体的な対策を国、府、市、民間事業者等が連携して推進することにより、地域の振興と秩序ある整備を図る「中心市街地活性化法」。平成十二年(2000年)7月京都市では、その適用第一号地域を「伏見桃山・中書島地域(下板橋通、国道24号線、宇治川、東高瀬川で囲まれた地域)」と決定し、この地域の「中心市街地活性化基本計画」の策定に取り組んでいます。
今後、この地域の魅力ある商業集積や歴史的資産などを生かした基本計画を策定し、この地域の商業・観光の振興を図り、さらに、高度集積地区における取組との連携による効果も期待されています。
京都市はこのほど、市内で初めて国の中心市街地活性化法の適用を受けた「伏見桃山・中書島地域」の活性化基本計画を策定した。
地元商店街や企業、市が出資する株式会社を設立し、酒蔵を活用したペンションやレストランの整備、十石舟の通年運航などを目指す。
伏見桃山・中書島地域では、昨年7月の適用決定後、地元の商店街、企業、学識経験者、行政などで構成する基本計画策定委員会が計画案の検討を進め、今年3月に市に報告書を提出していた。
計画の対象となるのは、伏見大手筋、伏見風呂屋町、竜馬通りなど七つの商店街・繁栄会が集まる地域約190ヘクタールで、2001〜10年の十年間を計画期間としている。「水でつながる文化とくらし−酒と歴史がかおるまち伏見」をキャッチフレーズに、観光などで集客能力を高める。
具体的な事業として、酒蔵の有効活用、十石舟の通年化、三十石舟運航の検討のほか、地域内共通のクーポン券発行▽地域内循環バスなどの整備▽多目的ホールの建設▽空き店舗を利用したコミュニティーホール設置−などを挙げている。
市や商店街のほか、本年度内に地元商店街や企業、市が出資してつくる株式会社のTMO(街づくり運営機関)が事業主体となる。<2001年9月30日 京都新聞>
日本名水百選のひとつ「御香水(ごこうすい)」で知られる御香宮神社。
この御香宮の南側、大手筋通に立つ丹塗りの鳥居は、均整のとれた美しさから「明神型鳥居の白眉」と言われ、長年地域の人々に親しまれてきました。
ところが平成十年(1998年)9月22日近畿地方を直撃した台風7号の強風を受けて片方の柱が傾き、解体修理が必要な状態となりました。それが神社、氏子、地元住民のたいへんな努力と熱意によって平成十一年(1999年)9月3日、無事再建にこぎつけることができました。ご協力いただいた皆さん本当にありがとうございました。
御香宮 拝殿の軒下にある大きな酒樽、天水桶と言うそうです。拝殿の屋根に降った天水(雨水)が酒樽に溜まる簡単な仕掛けの消防用水(容量2,000リットル)。補給は天からの恵みの雨だけでポンプや電源などは一切ないから故障もしません。
しかも三木宮司さんの話では、不思議なことにいくら日照りが続いても枯れたことはないそうです。修復したばかりの極彩色の本殿と使い込んだ酒樽とが絶妙な風情を醸し出しています。
この天水桶の起源は江戸時代。いつの世でもいざという時の水の確保が緊急かつ切実な課題ですが、水道も消火栓もなかったこの時代、雨水をうまく引き入れ、大桶に蓄えた古の人々の知恵にはほとほと感心させられます。
水に恵まれた「伏見」の先人だからこそ、いざという時の水の大切さを知っていたのでしょう。
株式会社 北川本家
京都市伏見区村上町370−6